明日、長年行きそびれしていたスキーに、行きます 車運転は、我が家は、女性禁止の為に、バス利用ですが、 明日迄の所、三月一杯の場所、両方あるから、 行けたらもう一回かな 題名と、こちらの内容違うやん?かな、ですが、一応、ですよね。 高校時代、学校にいた時、五月の雪も体験したなあ、
國松孝次警察庁長官(当時)が狙撃されたと聞いたのは、ビクトリアの高校で授業を観覧している時のことでした。僕は彼がどんな人物であるかについて皆目知りませんでしたが、警察のトップが撃たれたというテロのニュースを聞いて、地元の高校生たちは「TOKYO GAS」と関係があることなのかと聞いてきました。「Maybe.」と僕は答えました。1995年は様々な出来事があった年でした。1月17日に阪神淡路大震災が発生し、多くの犠牲者が出ました。そして3月20日、地下鉄サリン事件。その2日後にはオウム真理教へ強制捜査。そんな混沌した状況の中僕は日本を離れバンクーバーにいました。カナダのテレビや新聞でも大きく取り上げられていたそれらの事件は、このときまだ始まりにすぎませんでした。この数日後僕は函館に行くことになるわけですが、高校生活を始めた2ヶ月後の6月21日、羽田発函館行きのANA機が何者かによってハイジャックされ、「麻原を釈放せよ。」と要求。函館空港は厳戒態勢となりました。僕はその日部活の練習ためにテニスコートの上にいて、飛行機の全く飛ばない函館の青い空が不気味なほど静かだったことを記憶しています。閑話休題。そのような1995年の3月末に僕はビクトリアの高校生の家に少しだけホームステイをしていました。エディという高校生とその父親の二人暮らしの家庭でした。眼鏡をかけた栗毛の高校生と黒い髭を蓄えた父親は東洋のほとんど英語の喋ることのできない少年に積極的に話しかけてくれました。僕はハンドブックの辞書を片手に悪戦苦闘しながら何とかコミュニケーションを図ろうとしました。エディと当時流行していた日本のテレビ格闘ゲームをしたり、(僕は全く下手でしたので彼を失望させてしまいました。)、Aさんのホームステイ先の家庭と一緒に川原でバーベキューをしたり、高校に一緒に行って授業を見学させてもらったりと目まぐるしい日々が過ぎていきました。ビクトリア州の高校生は皆車の運転ができて、中には子供がいる高校生もたくさんいて、高校には高校生の子供を預かる託児所が併設されたりしていました。そこは全くの異世界でした。僕らはそんな高校生の彼らと行動を共にして、バンクーバーのスキー場まで出かけました。そこにはもう雪は残っていませんでしたが、リフトに乗って山の頂まで行くことのできる場所でした。僕はリフトに乗りながら「breeze is nice.」と言ってみました。それは『深夜特急』の中で出てくる一節を引用したものでした。隣の高校生は「exactly.」と答えてくれました。今思うとこの場所は2010年バンクーバーオリンピックの何かの競技で使われた場所なのでしょうか。頂からはバンクーバー、ビクトリアが一望できました。美しい街。こうしてバンクーバーでの日々は流れるように過ぎていき、終わりました。15年前の出来事はかなり薄らいだ記憶になりつつありますが、何かの拍子にふとその片鱗が頭を覗かせてくることが未だにあるのです。その断片をここで多くを語ることはしませんが、この日々が僕の少年としての終焉を意味していたのではないかと思うのです。この後僕は函館に行き、仲間と共同生活を送ることになります。そしてその3年後単身東京に出てくることとなります。このバンクーバーの日々がもしかしたら少年に世界の広がりというものを教えてくれたのではないだろうか。僕はバンクーバーオリンピックで各国の選手がカナダの先住民族の踊りに合わせて入場してくるシーンを見ながらそう思ったのでした。そして名の知らぬ小さな国の選手が一人国旗を振って入場する姿を見て、何だか泣けてくるのでした。僕とAさんはその後無事成田に到着し、新千歳行きのロビーに辿り着き、出発時間を待ちました。僕らはそこで随分話をしました。バンクーバーの日々のこと。これまでの人生のこと。そしてこれからの人生のこと。彼女は留萌に留まり、僕は函館に行き、そこからどんな人生が広がるのか。それは本当に誰にも分からないことでした。話しこんでいるうちに危うく出発時間を間違えそうになって、僕らは重い荷物を持ってゲートまで走りました。Aさんの荷物を少し持ってあげながら。母に言いつけられなくてもきっとこれぐらいはやったはずなんだと強がりながら。少しだけ時間がたって。函館の寮に手紙が来ました。O氏からの手紙でした。地元の留萌の新聞に小さなコラムだけれど今回の旅のことを書いてほしいと依頼が来たので、書いてくれないか、という内容のものでした。僕は了承して、原稿用紙に向き合いました。まだ大部屋で生活していた僕はワープロも持っていない高校1年生でした。「バンクーバーの光と影」というタイトルにしたそのコラムには、美しい都市で嗅いだパンの匂いとチャイナタウンで見かけた先住民族の狂舞のことを書きました。それが「早起きの三文」だった、と。齢90に近づこうとする僕の祖父はその記事をコピーして大事に取っておいてあって、今でも自分のアルバムに挟んであります。「光もあれば影もありました。」僕の書いたその一文に蛍光ペンでマークがされていました。彼もまた自分の若い日々を何か思いだしていたのかもしれません。その年の冬休み、僕はAさんと偶然再会しました。留萌に帰省した折のバスの中でした。地元の高校の冬服を着て、ショートカットはロングになっていました。そして少しだけ喋りました。「じゃあまた。」そう言って別れて、以来僕らは出会っていません。きっと彼女もバンクーバーオリンピックを見ながら15年前の少女の日々を思い返しているのではないだろうか。30歳になった僕はそんなことを思ったりしたのでした。バンクーバー1995記憶は薄れど、終わり、始まった時間。(了)・・・・・・・・・・・やっぱり終わっちゃったよ、オリンピック。。。(心の声)